「今日のひとこと」(別名今日の自己満足......)  Jan. 2002 - 18 April 2005

冬を送る 
 
冴えわびてさむる枕に影見れば霜ふかき夜のありあけの月
 
俊成女
(新古今608)
 
 

 新潟の4回目の冬も終わりまして。行く冬を惜しんで。


 
(23/03/2005)
吉野朔美(1) 

 

 この人が「少年は荒野をめざす」の作家だということはかなり前から知ってはいたけれど,読んでみることはありませんでした。この作家が近い存在に感じられた私の最初の経験は,たぶんもう5〜6年前になると思うけど,某大新聞の文化欄のカコミコラムでこの人の競馬に関する小文を目にしたこと。あ,この人,文章うまいじゃーん!,と思ったのでした。ただそのアトもこの人とは何もクロスするものがなかった。数年間も。

 しかし先日たまたま博多駅前の紀伊国屋書店で『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』(角川文庫)という連作短篇エッセーマンガ集(もとは『本の雑誌』連載)を手にしたのをキッカケに(これは良い),とうとう(?),「少年は荒野をめざす」にも手を伸ばしてみました(まだ第1巻だけ)。

 うーん。いまいち訴えてこないかんじ。どのキャラもプロットも,いかにも作り物!っぽくて。絵は.....むろんヘタではないけれど,表情が一本調子でねぇ....めちゃめちゃうまい,というわけではないなぁ。松苗あけみ同様,一条ゆかり→内田善美の系譜の直系で『ぶ〜け』の王道中の王道に属する作家とするに絵柄的に異存はないけれど。

 もっともこれは1985年連載開始の作だから,彼女の作歴のずいぶん最初のほうのものにあたるので,その後のは,もっと良いのかもしれない。

 それにしても1959年生まれ。ここにも私の世代のカルチャーヒーロー(ヒロイン)が.....
 
 

     (3/10/2003)
吉田秋生その2

 

 「吉祥天女」(1983〜1984)。うーんこれは,まるで山岸涼子の「日出処の天子」(1980〜1984)のパロディかと思うような,「人間の形をした人間でない者」の物語。で,「モンテ・クリスト伯」のような復讐劇がこれでもかっ!と続く,くらーいくらーい話。6人もねー,死んでしまうんですよー。こわいですねー。副主人公の涼くん(主人公が唯一愛した―ように見える―男;でも主人公がそもそも感情を持っているのかどうかもあやふや...)でさえも主人公に殺されてしまうし。ほとんど誰も救われないし。これじゃぁ「そして誰もいなくなった」だヨ。そして物語の基調は(例によって),フェミニズム。こいつぁ重たいぜ。それに加えてのホラーテイストだから,こりゃたまらん(汗)。

 筋立てにところどころ不自然な屈折・飛躍のようなものがあり,あれれ?という感じが何度もします。読んでいるうちに,殺される人々は,「予定調和的に復讐される」のか,「たまたま衝突したから殺される」のか,わからなくなってきて。エンディングも,落ちもなにもない感じで.... え?それで?どこに救いがあるの?ってゆーか。カタルシス,ないのですよ。むりやりくっつけたような吉祥天女のモチーフが,えーなんでー?という気がちょっと。敵対一族を皆殺しにした結果が,なんで”吉祥”なんじゃ?と。涼くんだって死んじゃったじゃないのぉー,ってねぇ。

 ですが,かえって,その不自然さで全編押し通すがゆえに,この人の「お伽話調」がにじみ出てくるようなところがあるのは認めましょう。吉田秋生は,「何を描いてもお伽話になる」のが,特徴なのですね。過度にリアルになるのを,びみょーなところで(あるいはあからさまに)はずす,というか。「何を描いてもお伽話になる」のじゃなくて,「はじめからお伽話しか描いてない」のかな。一見リアリストみたいなんだけど,実は常にアレゴリー作家。このあたりが,ほかの「(ばか)正直なリアリズム」に走ってしまう作家と違い,テイスト的に私に合うところかも。いやー久しぶりに血の出るまんがを読んだぜ(笑)。

 なお単行本では,私と同世代のカルチャーヒロイン・香山リカの解説が読めるのも,うれしいことです。
 

     (06/07/2003)
吉田秋生

 

 吉田秋生の最高作は(たぶん)『BANANA FISH』(1985-1994)ということになっているのでしょうが,わたし的にはヘビー過ぎて手に取る気にちょっとなれません。と思っていたら,先日,『河よりも長くゆるやかに』(1982-1985)を入手。『桜の園』(1985-1986)のカウンターパートはこれだったのか....... 設定からなにから,主人公たちの顔と名前の区別がようつかないとこまで,両作品はよく似ているだよ(笑)。

 私は昔,福生の近くに勤めていたので,拝島駅のホームの描写はなつかしい。うんと若いころの記憶がちょっとよみがえるような。明るいこと暗いこと,あったよなー,と。(拝島をハイジマって読める人は,そうそういないよね) って,こりゃ作品内容と関係ない話。

 それにしてもよくこんな話が書けることよ。80年代のマンガ界を振り返ってみると,山岸涼子といい,高橋留美子といい,誇張気味の悲観主義?リアリズムのこれでもかっ!という暗ーい作品がばんばんあって,あーヤメテー!,という気もします(ま,自分が読まなきゃいいだけか)。これもその系列と云えば云えるけど,まだちょっとお伽話っぽさがあるのが救い。

 時系列データを見れば,『河よりも長くゆるやかに』の完結にすぐ続いて『桜の園』の発表にになっているので,おそらく作者は,前者を描いているうちに,逆パターンの女の子モノを鏡像として描いてみたくなった,のでしょう。本作の「みどりと順子」の側からみた話を。あるいは,はじめからそのつもりだったのかも.... 『河よりも長くゆるやかに』と『桜の園』のペアを較べれば,明るくかつ余韻のある後者のほうに私はよりひかれるものが。

 そしてこのころの吉田秋生の絵柄はまるで大友克洋。彼女って,大友センセのアシスタントだったのか?? 「大麻畑でつかまえて」の橋の上のシーン「でも海に近くなると汚れはするけどさ深くて広くてゆったりと流れるじゃないか」・・・・・「おれはどっちかていうと....」のページは,コマ割もセリフまわしも,大友克洋そのもの100%。これは師匠?へのオマージュだよきっと。まさかこの2人は同一人物だったりして(爆)んなわけねーな。
 

     (08/05/2003)
松苗あけみ

 

 松苗あけみの最高傑作はもちろん,『純情クレイジーフルーツ前編・後編』(1982)にとどめをさします。が,『ファンタストの恋愛』(1984)という連作もかなりの傑作であることを発見。後者の,異様にこちゃこちゃした細かいコマ割りで全編を押し通す力業,ひねりのベリベリはいったキャラ設定,屈折したストーリー性,そのへんが,『純クレ』とは少し違う味を放っています。余韻のあまりない,ドライな紙芝居みたいな味わいというか。そして当然ながら安定した絵のうまさ。

 作品表を見ると,この方のデビューは1977年で,『純クレ』で頂点に達するまで意外と長いキャリアがあるんですねぇ。さらに申せば,『純クレ』の前年の『僕は天使に嘘をつかない』(1981)の絵柄が案外と雑でコマ割りもスカスカしている=完成までまだまだの感である=のを考えると,ほんと,専門家(あるいは職人)の頂点というのは一気にくるもんなんだなー,という気がします。

 松苗あけみの佳作をみていると,「一条ゆかりがやろうとして達し得なかったレベルをらくらくクリヤー」という印象を強く持ちます。乗り越えられた先人はさぞ...悔しかったかどうか。

 ......という私も,松苗あけみの90年代以降の近作はまったく目を通してません。見たら,がっかりするような心配が.....
 
 

※補遺1:松苗あけみは,大矢ちき・内田善美(!)らとともに,一条ゆかりのアシスタントから出発したそうです。そりゃー,絵柄が似てるわけだ。そして....乗り越えられた師匠は,....たーいへん喜んだと思いますよ。たぶん。

※補遺2:さっきコンビニに行ったら,一条ゆかりの代表作『砂の城』(1977〜1980)が3巻もので復刻されているのが目に入りました。う〜ん,なかなかいいところを突いている.... 彼女のいいところは,わたくし的にはコミック路線の『こいきな奴らI〜IV』(1974〜1977)か,その発展形の『有閑倶楽部』(1981〜),でしょうかねぇ。

※補遺3:ところで,松苗あけみのデビューが1977年ということは,たぶんその頃にお年は17〜19才くらいでしたでしょうから,私とまったく同世代だということに。こりゃ誇るべきことだ。
 
 

     (11/04/2003)
十二月廿五日,宮の御佛名に召しあれば,その夜ばかりと思ひてまゐりぬ。白き衣どもに,濃き掻練をみな着て,四十餘人ばかり出でゐたり。しるべしいでし人のかげに隠れて,あるが中にうちほのめいて,曉にはまかず。雪うち散りつゝ,いみじく烈しくさへこほる曉がたの月の,ほのかに濃き掻練の袖にうつれるも,げにぬるゝ顔なり。道すがら,
   年はくれ夜はあけがたの月影の袖にうつれるほどはかなき
 
  菅原孝標女 「更級日記」 西下経一校注 岩波文庫版
  〔宮仕へ〕の段 (長暦三年=1,039年;作者32歳の記憶。)
 
新潟に移る以前になかったことのひとつは,月の姿にやたらに気が付くこと。満月をとっくに過ぎた老いた月が黄色くあるいは青白く,東南の空の雲の間にかかるのを夜中過ぎに見ることの多いこと。あるいは,細くはかない若い月が,西の地面すれすれに沈もうとしているのをよく見かけます。東京や千葉で見ていた月は,こんなに頻繁でなかったし,大きくもなかったなぁ。クルマ通勤,116が砂丘上の高い土地を東西に通っていること,長時間勤務,どこまでも平らな越後平野,などなど,のせいでしょうね。上記の1,000年前の寒ーい風景は,凍れる暁のはかない月が服に淡い淡い影をおとしている,っていう,シンプルだけど印象深いひとこま。過ぎ行く新潟の冬を惜しんで。
 

(17/03/2003)

とにかくそこに岩がある。これは事実だ
こいつをどう説明するか,われわれは考え抜いてきたわけだが,結論はというと―――
素朴な一般大衆だけが事実を事実として素直に認め,
ひねくれた解釈などはしないのです。
「これは奇蹟で,魔王の手柄だ」ということは,
もうとうの昔によく呑み込めているんですな。

   「ファウスト」 第二部 10114-10119 高橋義孝訳 新潮文庫版
 

(30/09/2002)
 
ラネーフスカヤ .....わたし,なんだか眼が霞んでしまったみたいで,何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも,勇敢にズバリと決めてしまいなさるけれど,でもどうでしょう,それはまだあなたが若くって,何一つ自分の問題を苦しみ抜いたことがないからじゃないかしら? あなたが勇敢に前のほうばかり見ているのも,元をただせば,まだ本当の人生の姿があなたの若い眼から匿(かく)されているので,怖いものなしなんだからじゃないかしら? 
チェーホフ 「桜の園」 第三幕 神西 清訳 新潮文庫版  

 

 チェーホフの作に初めて接してまず驚くのは,登場人物のあまりの俗物ぶり,でしょう。これほどまでに,ありとあらゆる登場人物が,クセが強く俗物臭に満ちている世界というのは,キョーレツすぎる。多くのものがタテマエの下に封じられている,ある意味微温湯の,20世紀後半の日本に育った自分に,まるで冷や水を浴びせてくれるような,と云うか.... おなじくチェーホフ晩年の有名作「三人姉妹」と比べても,「桜の園」はその傾向が一段と強いように思われます。この程度のクセを持たせないと,新劇では舞台栄えしないということなのかなぁ(私は演劇にとんと縁がないので,そうかもしれない,と思うだけ) いやーまいった。

 本作の主題は,19世紀と20世紀の転換期における,世代間の対立。そして,階級間の対立。対立と云って悪ければ,対照。その時期,似たようなテーマの芸術作品は,たぶん星の数ほどかかれたでしょう。例えば,ホフマンスタール+R.シュトラウスの「薔薇の騎士」。あの元帥夫人は,桜の園の女主人・ラネーフスカヤのパクリなのか,その逆なのか... いずれにしろ,この二人はよーっく似てます。

 ラネーフスカヤの吐く上記の科白は,一応新世代を代表すると思われる青年トロフィーモフへ向けたもの。(ちなみにこのトロフィーモフの俗物ぶりも,相当なもの) ほとんど負け惜しみかもしれない,このような中年のいきがり,というのも,このトシになると少しわかるような気がします。とはいえ,「自分の問題を苦しみ抜いた」なんてことは,自分にはあるような気はしないですが.... (などと思いつつも,この説教クサイ科白によそよそしさを感じないのもちょっと難しいような。)

 年齢も,階級・出自も,ばらばらな多彩な登場人物のなかの,どの人物に感情移入するか,というのが,これを読む,あるいは読み返す,楽しみでしょう。この俗物どもが,自分を映す鏡になるわけだ....

 ちなみに,この物語世界を楽しむためには,12人ばかりの登場人物の,名前と性格づけを覚えておかないと,いまいち読んでいて混乱します。私は一回ではとても楽しめなかったので,何度か読み返しました。短いので,読み返すのは簡単です。

 ところで,本作の登場人物のなかで,ヤクザな執事・エピホードフというヤツは,感情移入するのが困難なくらいのヘーンな人だけれど,妙に記憶に残る。彼はなぜ,他の使用人たちと一人離れて,ギターを弾きながらずーっと唄っているのか?(そもそも,なぜ使用人がこぞって夕暮れ時にああやって野原でたむろしていられるのか,それも不思議) いうなれば,「”めぞん一刻”の四谷さん」,みたいなかんじ。
  


(11/05/2002)
とどのつまり弟子どもは,なんの教えも受けなかったかのように,
自分の流儀でやっていくものだ。

   「ファウスト」 第二部 7343-7344 高橋義孝訳 新潮文庫版

(09/03/2002)
その十三日の夜,月いみじく隈なくあかきに,皆人も寝たる夜中ばかりに,縁に出でゐて,姉なる人,そらをつくづくと眺めて,「たゞ今ゆくへなく飛び失せなばいがゞ思ふべき」と問ふに,なまおそろしと思へるけしきを見て,こと事にいひなして笑ひなどして聞けば,かたはらなる所に,さき追ふ車とまりて,「荻の葉,荻の葉」と呼ばすれど,答へざなり。呼びわづらひて,笛をいとおかしく吹き澄まして,過ぎぬなり。
   笛のねのたゞ秋風と聞ゆるになど荻の葉のそよと答えぬ
といひたれば,げにとて,
   荻の葉の答ふるまでも吹きよらでたゞに過ぎぬる笛のねぞ憂き
 かやうにあくるまで眺めあかいて,夜あけてぞ皆人寝ぬる。

  菅原孝標女 「更級日記」 西下経一校注 岩波文庫版
  〔大納言殿の姫君〕の段 (治安二年=1,022年;作者15歳の記憶。月は七月。)
 

全篇,異様なほの暗さに満ちている「更級日記」のなかで,特異的に明るい幻想味に満ちたエピソードだろうと思います。明るい初秋の月夜の闇のなかで隣に居る姉娘の,「たゞ今ゆくへなく飛び失せなばいがゞ思ふべき」という,ただの軽口とも,激しい無常観の唐突な表明ともとれるつぶやきに,思わず読む側もどきどき。そのやりとりが,一瞬ののち,一転して通りに響く笛の音におきかわるコントラストが,なんだかつくり話みたいな,鮮明さ。この姉は,翌々年に若くして他界してしまい,作者の陰影を一層濃くしてしまうんです。その伏線となる一夜の記憶。

また,1,000年前の人間の生身の記憶や情熱が,筆写によって現代にまで伝わっていることに,執念おそるべし,のようなものを感じざるを得ません。(岩波版の底本は,定家筆写)

※”大納言殿の姫君”とは,作者らが可愛がっていた迷い猫のあだ名。この猫は火事で行方不明になってしまう,という,「更級日記的これでもか!」の一幕を飾る。
 

★ ぁぁぁ,こりゃほんとに折々のうたのパクリみてぇだぁ。

(20/02/2002)

「中学生の頃には確実に両手に握り締めることができていた私のあらゆる可能性の芽が,気づいたらごそっと減っていて,このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦し」くて,もう17歳だと焦る気持ちとまだ17歳だと安心する気持ちの交差を,私は何にもなれないと枯れた悟りが巣くっていく17歳の”普通の生活”

ということが,綿矢りさ著「インストール」(河出書房新社刊)に書いてある,と,2002年1月27日付の朝日新聞読書欄の記事に書いてありました。
 

17歳の時に,自分はそんなことを考えつくような身であったろうか? ぜったいありません(断言)。そんなふうに若くして人生を考える若者って,いるんですねぇ。それって,普通? 新大の学生も,そうだろうか? (私は今までほとんど考えたこともなく,ただ目の前のことどもに対処してor流されてきただけ.....)

そういへば,ジャニス・イアンも,椎名林檎も,「セブンティーン」だよなぁ.... をっと,南沙織もだ!(意味不明な人,あなたは若い)
 

※ちなみにその記事の上には,私の世代のヒーロー(ヒロイン)の一人である松浦理英子氏(たぶん学年も私と同じ)の,いかにも朝日臭に満ちたすばらしいインタビュー(ポートレート付)が載っていて必見。
 

★ やっと,「ひとこと」っぽくなってきたじゃん(汗)。ひとことっちゅうよりはひとりごとだが。

(30/01/2002)

しかし,最初の,この半年間ほどは,
特に規律正しい学生生活を送らねばならん。
講義は毎日5時間ある。
鐘が鳴ったらすぐ講堂に入る。
予習おさおさ怠りなく,
教科書は一節々々きちんと調べておく。
そうすれば,あとになって,
本に書いてあることしか教授は云わぬということがよく解る。

   「ファウスト」 第一部 1954-1961 高橋義孝訳 新潮文庫版