幼少〜高校

1963年埼玉生まれ。田んぼの広がる関東平野のまっただ中で、関東の冬のからっ風を受けながら育ちました。毎日自転車で通った県立春日部高校で地学と出会い、天象部に入部しました。流星班に所属しましたが,放課後はほとんどトランプに明け暮れました。忙しい活動時期は限られていて、夏は合宿でペルセウス座流星群の観測を行ったりしました。また気象班にも足を突っ込み、気象通報を聞いて1年間毎日天気図を書いたりしました。

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大学に進学して地球物理学を勉強したいと思い、現役で東北大学を受けましたが不合格。浪人時代はお茶の水の駿台予備校に通い、そこで出会った北海道出身の友人に感化され、地球物理学科のある北海道大学に進みました。

学士課程

北大では体育会系の陸上部に入部し、長距離のアスリートを目指しました。毎日へとへとになるまで走り込み、寮に帰ると疲れ果てて夕食のあとは寝るだけの生活でした。あまり熱心に勉強しなかったせいか、2年目の学部への移行で目指していた地球物理学科に進めませんでした。天がダメなら地に行くかと方針転換。地質学鉱物学科を選びました。

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卒論で地質学鉱物学科の1講座(岩石学講座)の新井田清信先生の指導のもと、日高変成帯の幌満かんらん岩体の岩石学的研究に取り組みました。幌満かんらん岩は上部マントル由来の岩石で,見事な層状構造で世界的にも有名です。上部マントルでどのようにして層状構造を形成したのか確かめるために,フィールドで物差しを使ってかんらん岩の厚さを計りました。このときは層状構造の意味をよく理解していませんでしたが,何か意味があるに違いないと思って,卒論ではただひたすら物差しで厚さを計り続けました。

修士課程

修士課程に進学して層状構造の意味をもっと深く理解してみようと,4年生の夏に北大の大学院を受験しましたが不合格。1年間聴講生として次の年に再受験するはめになりました。あのころはバブルの頃で将来にあまり不安は感じていませんでした。1年間の受験勉強の成果もあり(?)2回目は合格しました。

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念願の修士課程に入学し、順風漫歩と行くかと思ったら1年目の途中でつまずいてしまいました。研究の目的が分からなくなり、一時は研究の道を閉ざそうとまで考えました。周りの人に相談するとなんてばかなことを考えているんだと笑われました。だんだんと自分の悩みなど社会の中ではほんのちっぽけな問題にすぎないのだなと悩むことがあほらしくなってきました。

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結局,一度辞めると宣言することで気分をリセットする効果がありました。少し冷静になってからもう一度フィールドに入り直しました。失うものがなくなると人間は逆に強くなるものです。北海道様似町のアポイ岳山麓自然公園の管理人の小林氏のご好意で元ネズミ小屋に3ヶ月間寝泊まりし、毎日幌満かんらん岩の調査に明け暮れることになりました。

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立ち直りの転機は北大博士課程の林田光祐氏(現・山形大学教授)とネズミ小屋で共同生活したことです。林田さんは当時ホシガラスと五葉松の共生を研究していて,毎日アポイ岳に置いたテントから双眼鏡でホシガラスの生態を観察していました。ホシガラスは五葉松の実を土の中に隠し冬季の食料に利用します。豊作の年は食べきれずに土中の実のいくつかは種として残り,次の年に五葉松の苗が生えてくるというのです。つまり五葉松は食料としてホシガラスに実を提供する代わりに,そのいくつかは種として蒔いてもらっているというのです。そのことを証明するために何個実を運んでどこに埋めたのかデータを集めていたのでした。

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林田さんは気の遠くなるような検証を試みていましたが,今日はこういうことがあったよと,毎日楽しそうに話してくれました。また,研究の話だけではなく,アポイ岳に生育している植物を一つ一つをとても面白く解説してくれました。それを聞いてハッとしたのです。自分は山を歩くときに岩石の露頭ばかり探そうとして,その道中をすっ飛ばしていたのです。気付けば山には自然があふれ,その周りには暖かく受け入れてくれる地元の人たちがいるではないですか。それまで自分はまったく余裕のない調査をしていたのです。そんなことでは研究が楽しくなるわけがありません。林田さんの話を聞いてもっと調査は楽しんでやるものだ,何か夢中になってやれば結果は必然的に付いてくるものだ。だから焦る必要はない,という確信を得ることができました。層状構造を物差しで計っていくことに次第に自信を失っていたのが,今度は徹底的にやってやろうではないか,他の誰よりも徹底的に幌満カンラン岩を観察してやろうではないかという意欲が湧き上がってきました。

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やる気が出ると運も好転してくるものです。このころにいろいろな出会いがありました。正直これらの出会いがなかったら今の自分はありません。「幸運は前髪はあるが後ろ髪はない」といいます。チャンスが巡ってきたら素早くつかみ取ることが大切なことを実感しました。初めての学会デビューが1988年3月に沖縄で開かれた地質学会でした。札幌から羽田で飛行機を乗り継いで沖縄入りしました。往復で宿代を入れて15万円かかったことを記憶しています。アルバイトで貯めた金をつぎ込んで学会後はしっかり観光もしてきました。発表は気合いを入れて準備し,自分でも結構うまくいったと思います。初めての発表で緊張しました。発表後の質疑応答で小澤一仁氏(現東京大教授)から質問とコメントをいただきました。さらに講演のあとで当時熊本大の小畑正明氏(現京都大教授)から熊大に来ないかと誘われました。なんでも幌満かんらん岩体の日米共同研究を開始するので,フィールドをよく知っている学生をMITに送りたいとの話でした。急に明るい光が差し込んで来たようなきがしました。これは絶対につかまなければならないチャンスだと思いました。そこで1989年3月に修士論文を発表し,4月から熊本大学の博士課程に入学しました。

博士課程(熊本大学)

1989年(平成元年)3月下旬,7年間過ごした札幌を後にしました。車に家財道具を詰め込み,苫小牧から大洗行きのフェリーに乗りました。埼玉の実家に寄った後,熊本に向けて陸路を出発しました。途中,宝塚の付近で1泊し,翌日,九州肥後の国,熊本に到着しました。大学院受験のときに下宿を決めておいたので,すぐに入居できました。月1万5千円の6畳一間のアパートです。熊本大学大学院自然科学研究科環境科学専攻はまだ発足したばかりで,博士課程の学生は自分を入れて2名でした。修士課程の院生が非常に活気に満ちており,北大大学院の人間関係で疲れていた自分には生き返るような心地でした。当時,小畑正明助教授(現京大教授),中田正夫助教授(現九州大教授),尾田太良助教授(東北大教授ご退官)が若手として地球科学科の改革をリードしていました。小畑氏はMITで学位を取り,

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博士課程(アメリカ留学)

ポスドク(無機材研)

新潟大学赴任後

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