(version 21/fev/2002)
(very minor revision 11/avr/2003)
 当研究室の教育方針(のようなもの)  学生院生募集日程(抄)を見る    トップページに戻る

 ここでは,私なりの「教育方針」(のようなもの)をつらつら(うだうだ)書いて,学生・院生募集の意思表示としたいと思います。なおここに書いてあることはすべて私個人の考えです。同じ地質学の研究分野でも先生によってその捉え方・スタンスは千差万別であります(であろう)ことをお断りしておきます。

※次のリンクは,ほとんど同じようなことを既に書いておられる先生のページ(他分野)。これらはたいへん参考になります。これらの先生方の考え方には,私も大筋で賛成です。
   → その1(東京大・富山先生)  その2(大阪大・小川先生)

※ガクモンをするとはどういうことか?を知るに好適の書→遥洋子著『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』筑摩書房<書評1><書評2> (書かれている対象は文系=社会学=ですが,内容の意味するところは文系・理系を問いません。こんなに読みやすく,ガクモンの最先端の院生生活を描いた書は稀。)

※また,ここに書いてあることは,大学を研究の場という枠組みで見たときに成立することがらです。もっと別に,実社会との関わりを軸に考えた場合は,少し違う話が付け加わるかもしれませんが,それはいずれまた......



 

 地質学は,「割り切りのいい」学問では全くありません。我々が地表でうかがい知ることができる地殻表層の情報は,その気の遠くなるようなスケールの全体像から見れば,まったくもって微々たるものですから,どんなに詳しく地質調査をしても,地下の様子のすべてが自明になる可能性は,ほとんどゼロです。すべてのデータは,モデルや仮説を土台にして解釈しなければなりません。解釈は,人の数だけある。そのように,答えが定規で引いたようには決して求まらない地質学とは,つまらないものでしょうか? いいえそんなことは決してありません(都城秋穂著「地質学とはなんだろうか」)。 地質学の方法とは,そのような,観察者である我々と,実際の地球の大きさとの間のあまりに大きなギャップを,研究者自身の観察力・知識・論理的構成力・想像力で埋めていく作業であると云えます。自然科学はどの分野も多かれ少なかれそのような性格を持っていますが地質学はそのなかでも特に,「自分」を発揮できる余地がとても大きい分野と云えると思います(そこがおもしろいんだよね)
 

 地質学の出発は,そこにある石や化石やその他いろいろの(地球の歴史の産物であるだろう)「モノ」がいったいなんであるかを調べることにあります。「モノに基礎がある」ということはとても重要なことで,「モノ」がないことには何も始まりません。「モノ」をおろそかにすることは決してできません。が,「モノ」が目に見えたからといって,あるいは,「モノ」を標本箱に入れたりそれに名前を付けたりしたからといって,何かがわかったわけでは全くない
 

(→【おまけ】参照


 その先にあるもの,=それが地球の歴史の何を語っているのか?を,自分のアタマで見出すことが,本質です。「モノ」を,その対象の周囲を含む歴史的コンテクスト(ちなみに歴史とは時間と空間で成り立っている)のなかに位置づけあちこちから眺めることによってそれは初めてなしうるでしょう。その際に,他人の意見は尊敬して傾聴すべきですが,他人の意見に自分をあてはめていくことは学問ではない(とはいえ,独善もまた,学問ではありません)。そしてさらに,その成果を,第三者に理解してもらえるように客観的に発信(論文・報告・講演)しなければ,仕事は完成したとは云えません
 

 この道筋は,自分の感性と想像力と知識と手と足を総合的に使って,他の誰のものでもない地球史観を描き・表現することであると云えます。それが達成された時のよろこびはとても大きいです。このちっぽけな人間(自分)が山野で泥をかぶって見て・たたいて・触ったものから,地球の歴史がわかっちゃうなんて,あまりにもスゴイことでこういう達成感を得られる学問分野はたぶんそうそうほかにないでしょう(たぶんだよ,たぶん)。そのよろこびを得る道筋のお手伝いをし,自分なりの地球観とそれを手に入れるスキルを多少とも身に付けた人材を世間に送るのが,当研究室の目標と考えています

 うーん 簡単に云うと,Don't worry, be happy (with your own hammer and brain). てなことかも。(なんのこっちゃ)

 それから 付け足すと,社会に出てから,ないと恥ずかしい常識,というのは星の数ほどあります。基本は,他人・世間への敬意と思いやりです。私はけっこう,そのへんでうるさいことを云うヤツ(自分のことは棚にあげて),でしょう。
 

(↑色がいっぱいあるとつかれるね。)
 
 

以下は,段階別に。


◇学部4年生(卒論生)
 

地質学的探究の最も重要な基礎は,膨大なスケールの「地球」を,いかに抽象化し紙の上に固定するかという点に集約されるでしょう。そして,少なくとも堆積岩地域の研究・理解に関する限り,それは,地殻構成物質としての地層において,累重関係を認識し,その空間分布を認識し,その地質体にいったい地質学的にどういう意味が見出しうるのかを言い表す,ということです。そのための基礎を築くのが,学部教育の最終目標と考えています。これは,学卒で就職される方にとっては,地質学の最重要な基礎を体得し,科学的方法のなんたるかを身をもって知る,そしてそれをこれからの社会人生活に役立ててほしい,ということであり,進学される方にとっては,地層そのものの研究であれ,化石の研究であれ,その研究を進めるための必須の基礎がためをきちんとしてほしい,ということになります。

このため,当研究室では,新生界(+中生界)の堆積岩分布地域(堆積盆)を対象とし,野外の地質調査に基づく地質図作成とその解釈,という作業を卒業研究の基本と位置づけます。解釈は,主として野外観察結果に基づいて行います。それ以外の室内ラボ分析等は,必ずしも必須とは考えません。むしろ,卒論期間の1年間では,時間の制約を考えれば,野外観察とその結果のハンドリング(いうなれば,味わいのある地質図・主張のあるおもしろい地質図・断面図を描くこと)を中心に研究を行うべきでしょう。したがって,例えば,何かの化石や限られた地質現象だけに特別に焦点を当てたような研究は,当研究室では卒論のテーマになりません。地質をある程度以上の空間的・時間的コンテクストのなかで認識できるという基礎(層序学の基礎)がしっかりしていなければ,その先の細部の探究は全く無駄ですし,学部生の段階で興味の領域を限定してしまうことは,自分の可能性の幅を限定することにもなるでしょう,という趣旨です。

学部生のやる仕事は,すべてトレーニングと云えます。いたずらに表面的な新規性を追い求める必要はありません。自分自身の足と感性で山を歩いた結果からは,策を弄しなくても,おのずとオリジナルな像が結ばれてくるはずです。愛情もって露頭をなでているならば,今さっきそこの山の露頭を見た君が,そこの地質を世界で一番良く知っている人なはず。自信をもっていいです。本に書いてあることをなぞるのではない何かが,きっと達成できるでしょう。

トレーニング中の若者は,知識がないとか何かのスキルが不足しているといって,何も恥じることはありません。今日できなかったことが明日できるようになるのが教育というもので,今日できないことがあるのは当然です。知らないことわからないことは,どんどん教員や先輩に訊いてください。何を訊いても許されて,それが全部実になる,というのは,若輩者の特権です。特権は使わないと損。(私も,もはや若輩者では済まない年齢ですが,わからないことはなんでも他人に訊きます) 知らないことはほんのちょっとの恥かもしれませんが,知ろうとしないことは単純に大損です。

地層を愛し,露頭を愛し,あなたの足元の露頭の「ほんの少しの情報」がいつしか語りかける雄弁さ,を楽しみましょう。また,楽しめるように,お手伝いします。を描いて,みんなにみせびらかしましょう(プロジェクトレインボー21と呼ぶか)。地質図・断面図は,自分がどう地球を理解したかという証です(かっこつけすぎ)。
 


◇大学院前期・修士課程
 

修士課程は,学部での学習成果の土台の上に,「自分の専門」の萌芽的段階を築いていく時期です。別の云い方をすれば,自分を「専門家の卵」に鍛えるということです。

テーマは,ひきつづき新生界・中生界の堆積岩分布地域(堆積盆)を対象に,地層の空間認識の土台の上に立った,より専門的に,あるいはより広範な視野のもとで,設定されるでしょう。この段階では,世間に通用する研究ネタはどういうものか?という視点が必要になってきます。卒論とはそのへんで本質的に違います。うかうかしてられまへんで。

特に,自分の思考に磨きをかけるには,同学の仲間達や教員と,自分のデータを囲む真摯な意見交換・討論が有効でしょう。仲間達や教員がノッて意見を云ってくれるような,借り物でない自分のデータを早く集めよう。

いろいろと厳しい面もあろうという大学院生活(注1)ですが,あれこれと勉強し,自分で研究をデザインしデータを集め解釈を進めるなかで,学部生以上に,いろいろな新しい発見があることでしょう。学部の時には気が付かなかったことが,たくさん見えてくるはず。そして,修士論文を提出すれば,ともかくも専門的なテーマに答えを自分で出すことができたという大きな達成感があるでしょう。それらはきっと,とても楽しいことです。

実社会においても,理系の修士号取得者は,単になんとなくその学部に入ってしまった人も(なかには)いる(かもしれない)学部卒者とは違って,2年間のテーマ追求を意識的に選んだ若者,という(プラスの)見方をしてくれるでしょう。事実,修士卒者の就職状況は,好調なのではないでしょうか(自分で確かめてみてください)。

ひきつづき,地層を愛し,露頭を愛し,仲間を愛し,あなたの足元の露頭の「ほんの少しの情報」がいつしか語りかける雄弁さ,を楽しみましょう。また,楽しめるように,(多少は)お手伝いします。
 


◇大学院後期・博士課程
 

博士課程の目標をひとことで云うと,feasibleな研究テーマをみつけ,研究の目的を設定し,計画を立て,実行し,その結果を世に問う,という「研究」の一連の流れを,独力でこなせるような人物になること,です。すなわち,「若手研究者」の完成。これを越してこそ,いよいよ「研究者」の入口への到達,と云ってもいいです。

博士課程へ進む者にはたいへん厳しい現状認識(注2)とそれに負けない精神力(と実行力)が必要です。学位がとれるかどうかということをたとえ別としても,学位取得後に「職業的研究者になる」という道は,すなわち熾烈な大競争の道であり,その意味で博士課程はバラ色の道とは到底云えず,いわばイバラの道であるという現実は直視しなくてはいけないでしょう。

とはいえ,生活面で不透明な世界に渡るというリスクを敢えて手にした人だけが,可能性を手に入れる人であることもまた自明で,研究者になりたい希望を実現するためには,この川を渡らないわけにはいかないでしょう。(そうではなく,企業・官庁等の研究職に就職するという手もあります) あとは努力と自律と行動と思索あるのみ

博士課程では「あ,そうなのか」という発見がたくさんたくさんあるはず。自分のテーマに限らず,その周囲や背景のことも,急にいろいろ見えてくるはず。見えてくるよろこびを楽しみましょう。また,楽しめるように,(必要なら)お手伝いします。おおかたは自分で苦楽の道を進んでいってください(千尋の谷)。
 


 
【注1】
修士課程は,2年間ありますが,決して長い期間とは云えません。

就職希望者にとっては,翌年の早春から夏,場合によっては初秋にまでわたるかもしれない,長い就職活動が,案外早くやってきます。いやむしろ,修士課程の2年間でどういう就職活動のスケジュールになるか,修士進学時には既に青写真を描いておくくらいの準備が必要でしょう。この就職氷河期に,あなたと職を争うことになる学部卒の学生は,あなたがM1生でいる学部3年の秋にはもう,就職情報ネットに登録するんです。つまり,博士課程の注にも書いてあるように(↓下記),「修士号取得」が目標なのでなくて,「修士号取得のあとに自分はこういう人生を生きていきたい(=こうやって食べていきたい or こういう食べていきかたなら許せる)」ということに対して何をすべきか,が目標になるべきです。また,卒論の成果をまとめて学会や論文で公表することもあるかもしれません。それは手間のかかる作業です。

博士課程進学希望者にとっては,研究者の卵としての長く苦しい(もちろん楽しいこともあると思うけど)競争の始まりです。始まりは重要で,博士課程の前段階として何をしておかなければならないか,周到なstrategyの練り上げと実行が必要です。ここでのほほんと過ごすと,その遅れをとりもどすのは容易ではないでしょう(ほとんど不可能かも)。地質学会に一度でも行ってみればわかるように,M2の夏の段階で,いかにも魅力的な研究成果を出している院生は全国にいくらでもいます。修士号取得の半年後には,修論が一流国際英文誌に載るっていう人も,ごろごろいるんです。そういう人たちと,ちかぢか,本当に少ない職を争わなくてはいけなくなるわけです。そういう人々に遅れをとっている場合ではないですよね。

(もしテーマが卒論から連続しているなら)卒論のデータの活用法を考え,今後数年間の学会発表の戦略を考え,その対策を講じたり,研究集会に出かけて人脈を作ったり,etc. ぼんやりしている暇はありません。また,学振DCの奨学金の応募を準備し,これからいやというほど書くだろうこの手の応募書類の書き方に少しでも慣れ,また世間が研究者(の卵)を評価する仕組みを理解する(したつもりになる)ことも忘れてはいけない。

「卵」になったアカツキには,修士課程修了後に就職する方においては,ある程度専門的な突っ込んだ研究を自分の力で成し遂げたという自負をもって,社会人としての基盤作りに自信をもってとりくんでください。進学者は,いよいよ川を渡る時(博士課程の項を参照)がやってきます。
 
 

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【注2】

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博士課程に進まれる方には,(そして職業的研究者になりたいと思っている方には),相当な覚悟が必要です。(なお,一切働かなくても済む超大金持ちの人には,以下の話はほとんど関係ありません。)

まず,博士とはすなわち研究者の入口ですから,自分ひとりでものごとをこなしていける必要があるわけで,誰か他人を頼って済む世界ではありません。とともに,自分の殻にこもってしまって済むというものでもない(特に先々を考えれば)。また,研究者は当然,広い世界に向かって発信をしていくことになるのであり,学位取得までに読まなくてはならない文献もまた膨大ですから,英語が不得意,っちゅうのでは全くお話になりません。どこの大学院でも選抜時に必ず英語の試験を課すのはそのためです。英語が不得意な人は,相当な修練を積んでいく必要があるでしょう。どんなにいい研究をしても,英語で発信できなければ,国際的にはその人は存在していないのと同じことです。

そして,より現実生活に即して云えば,修了後の職業選択の幅が非常に限られてきます。これは,労働単価の高い比較的高年齢の若者を,この大不況のご時世であえて採ろうという企業はそうそう存在しない,ということでもあり,また一般に企業は入社後にその会社・業種に合ったカラーに教育しなおすことを好むので,特定の専門領域に学問的に深く深く染まった者にはあまり魅力を感じない,ということでもあります。さらに,労働の流動化が多少進んだ昨今では,学卒で社会に出れば,万一の場合,キャリアの早期に転職の機会を持つことはある程度期待できますが,年齢が進むと,そのような選択肢は減るでしょう。

ガクモンと実業は当然,全然別ものです。ある意味,実社会で働く上ではガクモンが(ガクモンこそが)邪魔であることも多い。(ガクモンよりももっと邪魔なのは,「余計なプライド」ですが) それに,仮に地質系の企業であれ,大学・大学院でやったことの大部分は,実業が要求する世界のホンの一部またはごくごく基礎でしかないことが普通です。これは,学部卒でも修士卒でも同じこと。
学位取得者を待ち受けるさきざきの情勢は決して楽観できません。その状況で,「職業的研究者になる」という道は,すなわち大競争の道です。運もかなり利いてくるとは思いますが,本人の努力次第という面では,基本的には業績(論文)の数と質がすべてです。論文や学会発表等を通じて,自分の分野の研究者コミュニティで名が知られることが,とても大事です。これらも皆,博士課程のかくれた目標です。つまり,学位がとれることが目標なのでは実はなくて,学位がとれたその先に自分はどうやって自分を買ってくれる人を探すのか?どうやったら買ってもらえるのか?というところまで考えて計画を立て行動するのが,博士課程でしょう。(云うのは簡単だけど,難しいよね...)

時間だって,際限なくあるわけではない。3年で博士課程を修了できた人と,それ以上に時間がかかった人とでは,冷たいようだけど,世間での評価は歴然と違います。そのくらい世のなかは厳しいと知るべき。

上記の「feasibleな研究テーマをみつけ」には,どういう分野のどういう研究が,今or数年後は評価される研究なのか?」という判断や,「達成可能な目標が設定できるテーマかどうか」という判断が含まれます。自分の興味の趣くままに研究をすすめることもひとつの方法かもしれませんが(それはそれで学位はとれるかもしれませんが),世間がそれほど必要としていない分野の専門家になっても,その先の道はなかなか厳しいでしょう。

もっとも,道は自分で作る!というくらいのバイタリティがあれば,話は別かもしれません。それは少々極端な話として,自意識過剰は空回りのもとでしょうが,厳しい現実を乗り越えるには,多少はとんがってやろう,という「欲」が不可欠なこともまた事実です。「欲」の足りない人は(期限付きの目標に自分を駆り立てられない人は),きびしいです。

というわけで,研究者への道は,いつ終わるかわからないサバイバルゲームみたいなもの※※です。年月が過ぎさえすれば,あるいは,好きな道だからといって,誰もがなれる道ではありません。しかも,学位がとれようととれまいと,この先ともかくひとりで食べていかなくてはならない... それに耐えられる精神力と対処能力(とカクゴ)が必要です。

※※あるいは,果てのないトーナメント。学会発表こそは,自分を買ってくれる人(の芽)を気合いを入れて探すチャンスです。チャンスの回数はそんなに多くありません。年に多くても数回しかない学会発表に臨むのに,いかにも準備不足な,気の抜けた発表なんかしていたら,ヤル気も能力も疑われるだけです。それで終わり。続きはない,と思ってください。他にもっとできるヤツは,いくらでもいます。言い訳は効きません。チャンスを迎えて,自分の持てるものを100%世間に向かってアピールできる,というのも重要な能力です。院生の学会発表では,それが測られているんです。
...こういう道は,なにもかも忘れて自分の研究に没頭するのでなければ,まったく立ち行かないでしょう。なぜなら,最もよくできるライバルは,死にものぐるいで(例え本人がそう意識していなくても)自分のテーマに没頭しているからです。そんな奴に,凡人は片手間でやって勝てるはずないですよね。ところで研究に没頭できるかどうかというのはひとつの必須の才能ですが,その中身は2つの部分からなっています。ひとつは,当然,対象への集中力。もうひとつは,それ(と食い扶持の確保)以外のことを切り捨てられる・あきらめきれる,という能力です。誰しも1日は24時間しか持っていないですから,没頭するには,それ以外の人生の楽しみはなくてもいいというまでのカクゴがないと,研究なんていう途方もなく手間のかかることを完遂するには,とっても時間が足りないです※※※。なぜなら,最もよくできるライバルとは,それ以外を本当に切り捨てている人だからです(もちろん,切り捨てたからといって一番よくできる人になれるかどうかは別問題。厳しいけれど,それが現実)。例えば,趣味の化石採集の片手間にできるほど,研究は甘くないんです。
※※※かっこつけるわけではないですが,不肖私も,ここに至るまでは,フツーの人が楽しみと考えていることのほとんどを切り捨ててきました。そりゃもう,話すだに哀しくなるくらいです。それが凡人の定め。
途方に暮れたときには,自分の「モデル」になる先輩研究者を学界のなかで探すのは,いい方法です。自分の10年年上くらいまでの世代で,若くして注目を集めたような人は,どういう論文を,どの段階で発表したのか?という「成功した他人の人生のトレース」をちょっとやってみると,自分がどういう研究者になりたいのか,そのためにどういう成果を出していかにゃあならんのか,が多少とも見えてくるかもしれません※※※※。それに....運に左右されるとはいえ,実は運に左右されない人生なんてこの世のどこにもない,と知るべきでしょう。
※※※※「誰が注目を集めている若手なのかわからない」っ!っていうんじゃ,話にならねぇぞ。それはあまりに井の中の蛙。いつも世間を見てましょう。そうでなくても,人間はひとりきりで食べていけるんじゃなくて,誰だって世間に食べさせてもらうんだから。
もうひとつ,現実的すぎる話だが重大な話。大学院の5年間,奨学金を満額もらい続けた人は,学位取得と同時に膨大な額の借金を背負うことになります。どのくらい膨大かというと,地方都市に住むなら家を買う頭金に充分なくらい。普通に働いて,それだけの貯金を作るのには,かなりの年月がかかります。それが,貯金どころか逆に負債をかかえて社会に放り出ることになる。通常の人の感覚なら,例えばそれは,結婚の障害に充分なりえます(相手の親の気持ちを考えてみよ)。私の場合は,大学院に全く行っていないので,学卒後の奨学金返済総額はたいした金額ではありませんでしたが,それでも,高校・大学と合計3種の奨学金をもらってようやく大学から社会に出た私に,それから約12年間ほど,ずーっと借金を返し続けていくのは,順調に働いていてさえもかなりの負担でした。もらってしまったら,その負担にも耐えていかねばなりません。

........と,いろいろ厳しいことを書きましたが,私が一番云いたいのは,

「そのときどきに,研究に対して自分のベストを尽くしてくれっ! 悔いのないように」

ということです。悔いを残さないためにも,厳しい面も理解しておいてほしいという気持ちです。人生まだまだ可能性だらけの20代の,ほんとに貴重な,2度と帰ってこない「若い自分の今日」に,自分は研究などということをして,幸福だったか? それに躊躇無くyesと答えられる人生であれと願うばかり。(なーんて云っても,かくいう私は,いつまでも「今日」に満足できないからまたそのストレスで仕事に駆り立てられる,ってのが現実か....)
 
 

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【おまけ】 <研究とはなにか or 研究と勉強の違い >

◇ここに書いてあることは,あまりに基礎的なあたりまえのことなので,「そんなこと云われなくてもわかってる!」という方は,ここは読まなくていいです。(読まれると恥ずかしい....かも)
 
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自分が手足を動かして事実を集め,自分のなかで構成してしていく上で,ある時やってくる「へぇーっ,そうだったのかっ!ほんとかっ!へぇーっ!」ていう幸福な一瞬。ソノ一瞬が欲しいために,人は研究なるものに自分を駆り立てることができるんですよね(違うかな)。

つまりある意味,単純に「そうだったのかっ!」が,あらゆる研究の形而上的な(あるいはナルシスチックな)目的といえます(ちがうかも)

なので,「自分の手でつかみ取る”そうだったのかっ!”」と無縁な世界でしか地質や化石に向き合えないうちは,いつまでたっても研究様にはお近づきになれない。地質や化石を見て,「きれいだなー」「浪漫だなー」「すげーなぁ」と思うだけの感動を,たとえ何10回繰り返しても,研究にはなりません。それは趣味っていうんです。あるいは自然の神秘を精巧に説いている学説を読んで,「ふーん,すげー」と思うこと。それはお勉強です。研究じゃありません。研究は,対象(物体)と自分(精神)の距離を,情緒でなく論理で埋めていく行為ですから,物体への(過剰な)情緒的反応は,研究にとって有害です。 あるいは,情緒的反応と,論理的反応を区別できなくてはならず,しかも後者が圧倒的にメインでなくては研究にならない。※※

もちろん,物体への情緒的反応がゼロ,では,またこれも難しい。情緒的反応は,研究初期の動機付けとして重要だし,人間は論理100%では生きられないので,情緒もほどほどにあるのが自然。
 でも,「物体に対する情緒的反応」であるよりは,「”物体から出発して地球の歴史という抽象へ発展してゆけること”,つまり,地質学的論理,への感嘆,という情緒的反応」のほうが,動機付けとしては,うまくいくような。

※※へんな比喩ですが,この関係は,ポピュラー音楽(圧倒的に情緒に訴える)と,西洋古典音楽(情緒にも多少は訴えるが,圧倒的に音楽構造の創造と理解が中心的である)との関係にも似てます。詳しくは,許 光俊著「クラシックを聴け!」(青弓社)を参照。

「論理で埋めていく行為」は,ただ本を開けば他人の仕事が目に入ってくるというのとは違い,そんなに易しい,すぐにできちゃうことではない,のは自明でしょう。

「きれいだなー」から「そうだったのかっ!」への転換は,人によって,ずいぶん時間がかかる人もいるでしょうし,なんの抵抗もなく入っていけちゃう人もいるでしょう。でも普通は,そんなに大きなバリヤーではないはず。卒論を始めて,自分で手を動かして,真摯に露頭と向き合っている人は,すぐに越えられるでしょう※※※

※※※そのバリヤーがあまりに大きい人は,残念ですが長期的な研究生活にはあまり向いてないと云わざるをえないでしょう。が,それが卒論段階ならば,なるべくはやく越えられるようにお手伝いしたいです。
これをもうちょっと別の云い方をすれば,『研究と勉強は別もの』ちゅうことや。本に書いてあること,既に誰かがやって見せてくれていることを,読んで,聞いて,なぞって,それを理解することが,勉強。絵合わせで化石の名前を覚える,の類も同じ。本に書いてあるどんなに難しいこと新奇なことを,どんなにうまくまとめても,どんなにわかりやすく他人に説明してあげても,それは,研究じゃありません。そして,卒論以降に求められてるのは,勉強じゃなくて100%研究です。

誤解のないように云っておくと,勉強は,研究に不可欠なステップで,研究を始めたからといって勉強をしなくていいわけじゃなくて,もっともっとたくさんの勉強が必要なのさ。(うひゃあ,だよね。) むしろ,研究を始めると,今まで時間割に沿っていわば他人の作った流れで勉強してきたことから一歩進んで,「何を勉強したらいいかを自分で決める」段階に入ったわけ。研究とは,近代地質学300年の歴史の集積の上に,自分はどんな石を見つけて拾って,その巨大なケルンの片隅に積み上げるか,っていうことでしょう。その道を自分で見つけるためには,そこに既にあるケルンがどんなものか,をまず知らなきゃ,何を積み上げたらいいか,見当つかないでしょ。で,自分で見つけて拾って積み上げた石は,たとえどんなに小さくても,光ってるはずでっせ(おいおい)。
 

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